2013年9月7日土曜日

東へ‥ Hadap ke timur! to the east.


東への旅に出発する前にどうしても掘り下げておきたかったロンボク南部へ。先日タイのチュラロンコーン大学でASEANについての大学会議があり、ASEAN+の若い人達と意見を交換する機会があったが、大小の差がある他は、このロンボクが内包する諸々の現象は、東南アジア諸地域の問題とほぼ共通している様である。


最南東近くの村。真水なし。


ロブスター養殖場の男。


 奇妙な丘に住む老婦人。


奇妙な丘の上。村から出て観光業で就職を目指す青年。「この丘やその周辺は、自分が子供の頃はまだ沢山木が生えていて小川も流れていた。親の世代が全て切ってしまった。でも、親の世代の人達は切った後どうなるか正確に理解していなかったのだ。」


中部に戻って、訳すと「混作」という名の村。名前からして新しい村である。村の女達は実に皆若く、そして夫はマレーシアに出稼ぎへ(TKI=インドネシア労働力)。ここにロンボクを読み解く重要な鍵があるように思う。


かつての日本軍出資と思われる補給所地域。醤油と酒を生産。外国軍が去った後一様に、インドネシアの人々は隠し金を掘り当てるのを夢見て、施設を壊して地面を掘ってしまっているため、地形物はほぼ見られない。しかし、この一家は日本人の子孫である。そして、親の写真や、名、住所が分からないためそのことを正式には証明できない。しかし、孫達の目元に顕われた蒙古襞が、確かに彼らがモンゴロイドの子孫であることを物語っている。通常、sasak人には蒙古襞はない。


陸軍補給所(醤油)田中氏の嫁、たまさん。彼女の口から語られた物語は、一人の若い青年と初潮を迎えたばかりの少女の一つの完全な恋の物語であった。田中氏は現地の恋のルールに従って、正式に結婚し、自分の妹の名前で彼女をたまさんとよんだ。終戦時、妊娠7ヶ月であった。田中氏は自分の写真に日本の住所を書いて残していったが、たまさんは胸のポケットいれたその写真をどこかに落としてしまった。彼女の覚えている日本語は「たまさん が 大好き」。


Mataram、Karang Bata。海軍製綿所トミヤマ氏の息子と孫。上記の家族の境遇と同じ。


私の格闘(sirat)の先生。武器は日本刀。かつて彼の流浪修行時代の最後の頃、
夜半ある寺院で出会い、槍で打ち負かそうとしたが勝てなかった。数年後リンジャニの山で再び出会い、教えてもらうことになった。彼の師匠は日本人だが、アフリカで亡くなった。


南部。


洞穴の守衛。


外からは全く見えないが、中は大空洞であった。私はかつて、リンジャニ山の蒸気と熱気の満ちた狭い鍾乳洞で秘密に祈り(Allahに対する)を行っているsasak人達を見た、バリ(Karang Asem, Anak Agung)統治時代の風習の名残である。この洞窟も何らかの祈りの場所であった感がある。



金鉱山。企業が入ってくることを拒み続け、零細な個々の集団で採掘のみ自分たちと市で許可している。






資金が無いため搬出の車両以外採掘は全て人力。










  
Omake.


まだまだロンボクで見るべき地はたくさんあるが、さらに見聞を広げるためには東に向かわなくてはならない。こうしてインターネットを使うこともできなくなるだろうからこれで最初で最後の投稿になるかもしれない。これまでロンボクで出会った沢山の人々、大半は良い人で、大半は悪党であった。善事には多いに見習い、悪事にはその行動の根源には何があるのか探求し続けるのが我々若い世代の死命である。

前へ向かって前進!








2013年2月23日土曜日

2月





 どれだけ高潔な精神でもそれが入っている入れ物は、身体というモノにすぎない。モノという点では、その辺の石ころとなんら変わりない。この入れ物が無くなれば自然、消失する。この有限極まりない、モノ、を最大限生かしてそれぞれの目標を達成しようと、なんとか這いつくばって生きることに我々は余念がない。

 私の左右を様々な色、感触、匂いの風が通り過ぎていく。それは時に自然の織りなす千変万化の風であり、人々の獣匂である。

この風には、上下も優劣もない。









2012年4月19日木曜日

ロンボク


 気候が温暖のためか、林の様な場所でも生産できる作物が多い。この点が日本と大きく異なる。日本でも農薬や科学肥料を使わない場合、土が一番重要とされ、落ち葉をよく集めては畑に入れているが、だったらはじめから木の生えている下でやればいいと思うのだが、実際そういう光景を見ないという事はそう簡単なことではないということだろうが、私は専門家ではないのでわからない。


雨期の上空。トラジャへ出発した頃は乾期の終わりで、一面まだ土色だった。



早朝、漁に出ていた船から魚をおろす。




このエイは結局500円くらいでおばさんが買っていった。


 農村の女性はだいたい中学か、高校くらいで結婚する。それではイカンということで、在学中に結婚すると罰金などの、罰則をもうけている学校もある。結婚前の男女の交際に、裸でさらし者にしたり、死刑にしたりなどの村独自のルールを決めているところもあるので、そうした慣習の束縛が結婚を早めている様に思う。





 2月、トラジャから、バリ、ロンボクへ。生物としての人間の有様、という様な事を念頭において半年間過ごしてきた。己を空にして、人の(接する相手の、主に農民だが)心の中を巡るような日々であった。何を得たか、結果は何か、とよく聞かれるが、結論というものは持たない様にしている。そんなもので、俄に自身を飾ったとしても、千変万化する現実の前には全く用をなさない。

 さて、私が接してきた人々であるが、多くは僻地に住む農民である。彼らと我々の住む日本との地理的距離が縮まることはないが、情報技術の発展により、その気になれば彼らとさえも光の速さで瞬時に意志交換ができる(現に私の携帯にはあのトラジャの山獄からSMSが届く。私の生まれた80年代でさえ、この様なコミニケーションはとれなかった。それ以前に道もなかったから、90年に初めて車をみたときは村の人は鉄の馬だと思った(この話は前市長、当該村の村長に確認し一応裏付けがとれた)。)。
 そして、何より、日本を含め先進国の人々が日常的に触れ、口にする物の、それらの物の流れの末端には、かならずこうした人々がいる。日本の生活水準を維持するのに、どれだけの世界の力が使われているか考えると、震撼する。(全くの余談だが、数字だけで見れば、年収70万(月収5.8万)あれば世界では上位1/3の高収入層に入る。途上国では物価も安い、とは一世代前のものの見方としたい。世界規模の国際企業の生産する商品の値段は、どの国でもほぼ変わらない。それでも日本での生活も厳しいのだが仔細はいい。)
 この人類の急速な変化は、生態としての人間の進化の過程の様に感じているが、どうであろう。兎に角、どんどん変わっていく世界を見失わない様、大きな視点を持ちつつ、日常をすごしていくというのが、私の様なムヨウな人間の目標です。人の一生はみじかい。


2012年2月11日土曜日

トラジャ4

 町に雨が降り出すと、どこからか鳥がやってきて、盆地上の町の上をぐるぐるといつまでも飛び回る。鳥達に目をやりながら、ここに来てから見た光景を思い出す。
 古いスクーターに乗って岩の剥き出した不整地を1000キロ以上走った。時に雨期の泥濘した道を、時に谷沿いの道を落ちそうになりながら、子供を、農夫を後ろに乗せ、行く。ついた先では雨露に濡れていようが、疲れていようが、我々は常に道徳豊かな人間であることが要求される。牧師は純粋すぎるとも思える誠実さをもって、当たり前の様に一つ一つの仕事をこなしていった。
 そういう日々の、一度ではとても思い出せない瞬間、瞬間の断片が、混ざり合っては、雨空に浮かび、鳥達の回る軌道と共に消えた。残ったものは、血肉に混ざった思い出と、時々撮った写真である。明日、私は再びバリへ、山村へ向かう。

河川敷の石を割って売る少女。

石割り夫婦。

河川敷。


コーヒー農家。近頃はコーヒーの値段と労力が釣り合わず、畑の手入れがあまりされていない。土地の

コーヒーの皮を剥く。このコーヒーは製品となって日本へ行く。
北部、Sesean。

私のいた教会。

家の中が私の教室。


家の裏ドアを開けると広がっている光景。盆地上の地形に天地がより広大に見える。

山の上の村。時に歩いて、時に馬に乗って、人々は行く。
南部、Rano


隠れた歴史の遺物。イギリス製、水力タービン。村人は昔、日本人が持って来たというが、村人の歴史への認識はかなり低いから本当のところは分からない。
西部、Bittuang。

どこまでも続いている禿げ山は、長年の放牧によるものかと思われる。

これまで馬と人が通る道しか無かったが、最近道ができつつある。
南部、Bau


omake