2009年8月29日土曜日

9/19



今回はLombok島南部の見聞と私の近況について書こうと思う。

8/31、私はレンタルバイクを借りていよいよ島の農村部を見に行くことにした。事前資料は日本のガイドブックの地図のみという情報の乏しさであったがとにかく行ってみる。私の借り部屋(kosという)があるMataramから目標のKutaという地域までおおよそ50Kmといった所だろうか。島を西から南東へ斜めに横切る経路をとることにした。途中、安価な資材でできた建物と荒れっぱなしの公共物が広がるいかにもインドネシアらしい街並を横目に、Sukarara、Sengkol、Sade等の町を通り過ぎる。地図上では大きめの道の様に思えたが実際には人が多く住んでいる上記の市街地以外の地域では道が非常に悪く、穴だらけのアスファルトの道を走らなければならなかった。しかしこれが唯一の道であり日本の様に何本もの横道が走っている訳ではない。道が少ないため、土地は広くても人々は道路沿いに所狭しと家を建てている。尻の痛みと戦いながらでこぼこ道を進んでいくと、視界から木々が少なくなっていきしだいに乾燥地帯の風景へと変わっていく。起伏のある丘に背の低い草木がどこまでも生えている他は土地の低いところに椰子、もしくは葉の少ない木が植えられているのみである。そんな中に時折小さなSasak人の集落と、彼らが耕しているのであろうか、一面の緑の畑が広がる(このときは私はこれを野菜だと思った)。どこまでも広がっている様な乾燥した大地は以前住んだことのある南オーストラリアの田舎の光景の様であった。途中、子供のパンクしたバイクを運ぶのを手伝ったりしたため、3時間程かかって、私は目的のKutaから東にそれた海岸に到着した。そこはやかましい都会からずっと離れた南の島の楽園といったところであろうか、設備の整ったホテルが一つ建ち眼前には遠浅の青い海と奇岩が点在する砂浜が広がる。南の島の楽園....少なくともそれを楽しむ権利は西洋人(もしくは十分に裕福な人)にしか与えられていないように見える。ホテルの周りには小さな集落が点在し、それらの集落に住む人々は島中央部のものに比べ随分貧しいようだった。ボロボロの洋服をまとった人々を尻目に、真っ赤に日焼けした西洋人が砂浜でサラダなどをまあまあだねといった感じで食っている光景は滑稽であった。かくいう私も現地の人の目から見ればこの滑稽人間共の同類以外の何者でもない。南インド洋の激しい波が海中の棚にぶつかるのをいつまでも見ていたかったが、往路の道のりを考えるとゆっくりもしていられない。しかし、すぐに北に向かい海から離れるのも名残惜しかったので帰り道は西の海岸沿いを通りその後、北に向かいMataramへ至る道で帰ることにした。時間があればいくつかの集落を訪れてみたかったが、日が落ちた後では帰りの道中苦労するのは目に見えていた。この経路が災いし、帰りは随分迷ってしまった。いったいどこをどう走ったのか、西から島の中部、Prayaへ至りMataramへ帰った(おまけにMataram市街でもさんざん迷った...まあそれはどでもいい)。
 何日か後、知人に夕食に招かれる機会があった。インドネシア人はこうした時間や食事を共有することを大切にする。数名の大学の教授、新聞記者といった顔ぶれであった。彼らが私の写真にも興味を示してくれたのもあったので、これまでインドネシアをみて見てきて思ったことを色々と質問してみることにした。このことは私にとって大変好運なことであった。彼ら自身国内の色々な問題を調査しており、わたしの疑問に共感してくれた。この日Lombokの現状について色々話したがこの場では、ロンボク沿岸部のことに的を絞る。まず私が見た乾燥した大地は昔から今日の様な広さであった訳ではない。かつて人々は木材を売るためにこのあたりの森を開拓してしまったそうだ。その結果沿岸部では木が生えなくなり、水がなくなった。人々は生活に最も必要な源を失った。そしてその乾燥した大地に最適でかつ金になる植物、煙草の栽培が始まった。食べられる野菜ではなく。人々は、土地を開きタバコの葉を育て、そこで働いた金で飲み水や食料を買うのである。大抵の沿岸部では土中から水が出ないため似た問題を抱えているという。このことについては私自身がもっとこの問題に対して追求する必要がある。この日他にも色々な話をしたが、インドネシアにはどうも様々な要因が連なった一筋縄ではいかない生活の問題が多く存在するようだ。例えばある地域では、米国企業が海に水銀を流してしまったため、そこで捕れた魚を食べた人が病気になってしまった。普通に生活していては決して見えてこないこうしたことを、なるべく見聞し追求したいと思う。

 私の近況はまず、どうにもこのところ体の様子が変なので病院に行ったところ結核にかかってしまっていたようだ。前々から、走ったりするとやたらと疲れて息が上がったり、咳が続いたりしていたのだが、最近なったこともない激しい肩こりに悩まされていた。あるときふと、肺がんにかかった祖父が毎晩肩の痛みを訴えていたことを思い出した。祖父は結局、自分や家族全員肩が悪いのだと思い、長いこと医者に行かなかったため、治療が手遅れとなり早くになくなってしまった。私はこの経験から肩の痛みと肺の病気が関連していることを知っていたため、悪くならないうちに気づくことができた。ひょっとしたら祖父に救われたのかも知れない。結核は、インドネシアでは非常に患者の多い病気で、患者の数は中国、インドに次いで第三位ということだ。医者は、この病気はインドネシアの敵だと言っていた。煩わしいものと戦うことになったものだ。
 それからうれしい知らせは、イスラム教の断食月が終わったこと。これでもう隠れて昼飯を食べたり、朝の三時に大騒ぎして食事をする人々に起こされたりしなくてすむ。


                   タバコ畑

                  近くの漁忖

2009年8月25日火曜日


初めの投稿は私の友人達のために書こう。

 最後に集まった日の晩餐を懐かしく思う。前回の旅からすっかり倹約癖が身に付いていたため、胃が小さくなったのかあまり食べ物に手を付けなかったのを思い出している。3日程前から始まった断食月のため太陽の出ている間イスラム教徒は食事を口にしない。即ち島民のほとんどがイスラム教徒のこのLombok島では、たいていの場合、食事にありつけない。朝、部屋に隠れて菓子をかじる位だ。幸運にも食べ物にありつけても一目につかない様に隠れて食べなければならない。幼い頃からの習慣とはいえ、断食中は誰もが多かれ少なかれ飲食を我慢している。そんな中で大っぴらには食べられない。...今腹が減っているために飯のことから書いてしまったが、出国から今日までの間、韓国での一夜、ジャカルタでのミーティングからLombok島への移動、大学でのあいさつ、移民局などを経て慌ただしく過ごし、本日初めて借間(Kosという)の近くのインターネットが使えるレストランにきている。レストランにいるものの食事はできないが...。
 とりわけ書くこともおもいつかないので、この島についての概要でも書こうかと思う。名をLombokという。インドネシアの中でもやや東、ヌサトゥンガラ諸島という地域に属し、直径約50キロ程の島に、富士山級の火山があり、300万人もの人が住んでいる。他の島からの移民も多いが、ササ人という民族を主体に3つの土着民族が居るそうだ。バリ島の隣にあり、自然がたいへん美しいことから白人も旅行に来るが、みる限り観光産業が中心とは思えない。これまでの調査では島民の月収は最低5000円〜中庸10000~15000円位ではないかと推測している。ただし、物価は日本の約半分くらいなので、経済にたいして人口が多すぎるか、富が均等に分配されていないもしくは国外へ流れているのではないだろうか。地域の広さを考えれば10分の1程の人口が適当ではないか。そういうことを勉強したことがないのであくまで幼稚な推察にすぎないが。
 借間の周りを数キロ歩いただけでも、この都市部の住民の生活に問題があることが見て取れる。いくつかあるがとくに(外国人である私の)目に留まったのは、水の問題だろうか。川という川、水があるところには例外なく多量のゴミが捨てられ、住居からは生活排水がそのまま川に注がれている。下流では住民がそこで水浴びをし、洗濯をし、子供たちが泳いで遊んでいる。多くの家庭が住居の中にニワトリのような家畜を飼っていて、そのニワトリは捨てられるゴミの中から餌を啄む。この様な生活を半世紀も続ければ、子孫の人体に重大な悪影響がでるのではないだろうか?今は、移動手段が限られているため、色々な地域を見に行くことができないのが残念だ。しかし、まだ時間はある。少し腰を据えて、見聞しようと思う。今のところ私は、問題の根源は住民の士気の低さ、小鳥のように小銭ばかりを啄みたがる目標意識の希薄にあるように感じている。この私の愚かな考察はすぐにでも間違いだと気づかされると期待している。

 昨日の晩日本の夢を見て恋しくなった。私の心がまだ正常な証拠だと望郷の思いをこらえた。

私の友人たちへ、空気で膨れた胃とともに。

2009年8月16日日曜日

Test




写真の掲載のしにくいMyspaceでのブログをやめ、こちらでブログを始めることにしました。
現在インドネシアにてこれを書いているので、インターネットがつかえない理由から月に一回程度書くことを目標にします。