2010年12月11日土曜日
ロンボク思い出し日記-南方の農業-
2010年12月7日火曜日
2010年11月23日火曜日
消される風景
2010年11月10日水曜日
2010年11月5日金曜日
2010年10月3日日曜日
2010年6月16日水曜日
婆との思いで
雨期は畑に出られないので、農場の手入れ、雑務をする。収益にあまり影響しない時期のせいか肩の力も抜けた印象がある。
生まれた時から今まで、この村の農家で暮らし、年は分からず、80歳か90歳。(後に戦中の記憶の証言から、77歳位であると私が訂正した。)若い頃は村から北部の港町シンガラジャの近くの市まで徒歩で山を下り衣類の行商に出た(バリの行政の中心はかつてはデンパザールではなくシンガラジャであった。)。子供は7人出産したが大人になるまで生きたのは3人とのこと。
2010年5月22日土曜日
5/22 見たまま
2010年4月5日月曜日
4/5 喰うに事欠く、事欠かない
日本は世界でも数少ない、喰うに事欠かない国の一つである。この喰うに事欠かないということは、ひょっとしたら生命の種としての人間の社会形成にとって、至上の目標なのではないかと、ちょっと思ったのである。私の見てきたところ、腹を満たすことに不安のない場所では、人間はあまり物質的な欲望に対して、がつがつしていない。経済の熟した地域、若しくは最小限の経済活動の他は自分達の食べる物を自分達で賄える地域がこれにあたる。
ところが、この中間位にいる人達、つまり自分の食べる物が賄えない状態で貨幣経済の渦中にある様な人達が世界には大勢いる。喰うに事欠き、金もない。こういう状況で、己の精神と欲望を律して生きられるのならばその人は聖人である。
人間は等しく優秀な頭脳を持ち合わせているにも関わらず、その行動は個人のアイデンティティーと切っても切りはなせない。人はアイデンティティーを自分の属する宗教や社会から作り上げるようだから(日本人には理解に苦しむ人も多いだろうが、神の子としての生を全うする人の世界になんと多いことであろうか。)、生まれた環境を否定し大どんでん返しをすることなど容易ではない。(人間は自分の生活環境がどんなものであれ、変化に対して嫌な顔をする。飼い犬や猫が餌や寝床が変わるのを嫌がるのに似ている。人間も動物の一種である。断じて生命の頂点に位置する優れた存在といった様なものではない。)
中間に生まれた人は、中間の世界で生きていく。
こうして、世界のほんの少ない箇所に富が集中し、他の大多数が喰うに事欠き、金もないという世界を人間は何百年も変えられないでいる。
生物と喰いものの関係は需要と供給である。喰うものが多ければ増えても生きていけるが、喰う物がなくなれば、飢え、死ぬ。喰うに事欠かない状況では人の心も安定する。
日本は世界でも数少ない、喰うに事欠かない国、我々の子孫は100年後もそういえるだろうか、いやそもそも、そのこと事態どれほど正しいことなのだろうか?
殆ど日常的なことなので、私もそろそろ慣れて、何とも思わなくなってもいいのだが、家もある、飯もある、家族もいる、着るものもある、体つきもしっかりしている人に、金を恵んでくれ、と手を差し出されると、困惑する。確かに暮らしが圧迫する程賃金も低いだろう、仕事も容易に見つからないかもしれない。しかし、だからといって私の顔が”白い”とみるとやたらに金をよこせというのはどういうことか。貴様に恥はないのか!と頭をボカとやってやりたくなる(いつまでも日本人的な判断基準ではいけない。相手の事情を考えなくては‥考えなくては‥!)。貨幣経済の低所得な領域にあり、家計がひっ迫しているのは百も承知である。
逆に、貨幣経済から少し離れた地域では、金をよこせとせまられたことは殆どない。それどころか、私になけなしの金や物を、道中物入りであろうと、くれることもある程である。
私は、人が死ぬ程の飢餓に立ち会ったことのない、極めて胃袋の幸福の絶頂にあるような人間である。しかしそれでも、喰いもの、経済、人間の生み出す世界の台所事情が少々気になるのである。台所は、卑しく、浅ましく、清楚で、高潔である。
2010年3月28日日曜日
3/28 喰いものの話
インドネシア人と話していると、日本にあれはあるか、これはあるかといった話になることが頻繁にある。考えの至らない者になると、日本人の主食はラーメンだと思っている様な場合もあるのが、我々にとっても身近な野菜や果物、天然素材についてあるかないかと聞かれることが多い。バナナやキャッサバ、アボガドの様な熱帯産の物なら、ああそれは買うことはできるけど輸入品だよ、ということになるが、キュウリやホウレンソウ、カボチャなどを、さあこれはまさか日本にはないだろう!といった感じで聞かれると、何を言っていやあがる!という気持ちになる。しかしちょっと待てよ、我々が普段口にしているものは一体いつ、どこからやってきたのであろうか。キュウリ、ホウレンソウ、カボチャ、いずれも漢字にしてみると黄瓜、菠薐草、南瓜、これらの野菜が、日本土着のものとは思えない。
人間は、身近なもの程まさしくそれが数千年前からの習慣でもあるかの様に思い込んでしまう様だ。そしてそれは、生きていく上で大して問題にならないから考える必要もない。私自身、日本で日常、道脇の畑で見かける野菜を、それが一体何故そこに存在するのか、ふと思いはしても次の瞬間には忘れてしまっている程度にしか考えなかった。人間がこうした誤認を本当に日常的に重ねていることにあらためて気づかされたのは、私が普段目にするロンボクの光景からだろう。インフラ整備の中途半端な町中のことである。壊れたアスファルトの道でジーンズ、Tシャツ姿で携帯をいじくり回す沢山の若者達を見るとどうも先行きの暗い気持ちになる。それは町中だけのことではない。島の農村部でも同じである。もはや伝統的な生活風景を見ることはできない。それどころか、何が自分たちの伝統、文化なのか既に正確に語れる者は殆どいないといっていい。彼らの持っている知識の根拠は、インドネシア政府による都合あわせの近代史教育と、私と同じ、既に子供の頃から日常となっている習慣への誤認である。大量消費時代の、我々の親世代が戦前に無関心であった様に、インドネシアの人々もほんの近い過去を誤った形で後世に伝えていくであろう。私はこれが人間の悲しい因習の様に思える。昨日より今日。今日より明日へ生きていくのが人間であるが、同時に過去から学ばない者は同じ過ちを繰り返す。歴史から学ばない人間の集団は、愚か者の集まりであり、罪悪である。言い過ぎた。
私はどうも年寄りが好きな様で、また年寄りの方も私を好む傾向がある様だ。面と向かい合った人間は己を写す鏡である。そういう訳で、昔話をせがむ機会に恵まれるわけだが、往々にして当の本人が経験した過去と、世間で言われている見解とは異なる場合が多い。直接の息子や、孫でも若い世代が持っている知識は後者に由来する。ひょっとしたらこのことは万国共通なのかもしれない。先日もばあさんと孫の中間に座っていた私が、二人に伝統衣装に関する同じ質問を別々にすると、孫の方はこの地方で結婚式や祭りで使われる日本の学生服の様な物をずっと昔から伝わる伝統衣装だといい(始めは今着てるTシャツと同じよ、と言ったが)、ばあさんのほうは、最初こそそうだといったものの、よくよく思い出してみると違うようで、ほうじゃほうじゃ、そういえば大人はこおんな三角の形をした服を着ておったわ、と言う。そういう服は博物館にも展示されていなかった。孫のほうも初めて聞いたという風に驚いていたが、すぐに興味を失ったようで携帯のメールを忙しく見ている。婆さんは75歳位で、私(わたくし)は大東亜の学生です、これを小学校で教わったがどう意味だと私に聞いてくる様な年齢。日本の学生服の様な物の方は、恐らくオランダ/ヨーロッパがもたらしたか酋長、王族に着用を義務づけたものだろう。とすると、三角の服の方が、伝統衣装だと言えるだろう。若しくは私見だが、サロン以外何も身につけていなかったか。こういう小さな事実を記憶しておかなくては、以後この事実は失われてしまうかも知れない。
しかしこうしたことの何と多いことであろうか。もし、読者の中に高年齢の祖父、祖母が健在の方があれば可能な限り昔話をせがむことをおすすめしたい。昔話の多くは我々の日常とはかけ離れたものであるかもしれない。しかし、世界とはまさに彼らの語るところそのままである。過去に学ばないものに、未来はみえない。
子供の頃じいさんが言っていた、じいさんの子供時代の話。裏山で松茸が山の様にとれ、おもしろ半分に撃ってくる米軍戦闘機を芋畑にかくれてやり過ごす。爆撃の翌朝仲良しの女の子がどぶに横たわり、我らが中学校はかつて射撃訓練場であった。それらはほら話ではないどころか寸分違わぬ事実であることが、今、やっとわかった。
話を本題の野菜にもどそう。では、我々の胃袋に消えていくそれらはいったいいつから、ここにあるのだろうか。電子辞書の広辞苑が意外と役にたった。少しだけ例を挙げる。
黄瓜:古く中国より伝来。
大根:同上。
菠薐草:イラン原産。16世紀中国より渡来。菠薐はネパールの地名。
南瓜(カボチャ):16世紀カンボジアより渡来。
ジャガ芋:アンデス高地原産。1596〜1615(慶長)ジャカルタより渡来。
トマト:アンデス高地。18世紀。
人参:西アジア。16世紀。
玉蜀黍(トウモロコシ):中南米。16世紀。
薩摩芋:中南米。中国、琉球、九州を経て渡来。17世紀。
キャベツ:明治初年以降。
白菜:明治以降。
こうして見ると、普段我々がスーパーマーケットで買う様な野菜は日本で栽培が始まってからまだ数百年程しかたっていないものが多い。すると、我々の祖先はどういったものを口にしていたのだろう。弥生時代、米と大豆の栽培がはじまって以降、古くから渡来している、長いも、里芋、大根や、小豆といったものだろうか。数百年で食事の様式は随分変化を経ているのではなかろうか。すると、我々がこれぞ伝統の味と思っている数々の料理も、何を基準にそういえばいいのか、危うくなってくる。
写真:トラジャ県南部山岳地帯にて、谷に生える水菜を収穫し帰路につく子供達。文明とはなれて豊かな自然の実りと共に生きていくのと、便利な文明のそばで貨幣経済の渦中で生きていくのと、どちらが幸せか?