2009年12月15日火曜日

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 世の中の様々な事は複雑な機械の内部の歯車の様にかみ合い、連動している。よい事も、悪い事も両方である。独立しているものなどなにもない。それが紛れもない事実であり、時に抜け出せない程の悪循環となりえることを、この国はいくつかの例をもって私に見せてくれる。地表を這い回る一匹の蟻と全く同様の矮小さ、これが私という人間の等身大であろう。

 先日、日本の国際緑化センターの企画する海外林業人材育成研修がロンボク島で行われ、私も現地での日程に参加させてもらう事ができた。ここで研修の内容は詳しくは触れないが、植物、気候、畜産それに近接した人間の経済の現状をかいま見、こうした切り口から社会、人間のあり方というものを思い知らされる、たいへん貴重な研修であった。また参加者は己の自学研鑽のためにやってきており、その多くが女性で、私と年もあまり変わらないということであった。彼らの過去の経緯にも驚かされるが、発想、忍耐、エネルギーという点でこれからの日本の未来を支え得る有志であるといえるだろう。故郷の街では世の中の道を踏み外し(たとみなされ)、しかたなく放蕩生活を送る私である。身近な人からも嘲笑の的にされることの多い私の考え方が、通じる相手がいたというだけでも驚くべきことだが、まともに意見を交わす事ができることなどそうはない。彼らは私に再び気を引き締めさせてくれた。そもそも私には仲間など一人もいないのだし、これまでも路肩に死骸を晒すのを本望としてきたのだから、思うままに生きるだけである。


 さて本題を私の見ているこの島の光景に戻そう。
 インドネシアは国の発展上、近代に植民地であった期間が長く(約350年)、産業、文化、精神の蓄積が近代社会と必ずしも適した段階でない状態での独立、近代化であり、その反動から生まれる痛みも大きいと推測する。そしてその痛みを被るのは紛れもない人間であり、また痛みの元凶そのものも人間である。この国(或はロンボク)の人間がこうした状況を一日でもはやく改善し、発展途上国という枠組みから抜け出すにはどうしたらいいか、傍観者の立場ではあるが今回研修で学んだ事と絡めて、歯車の一端を考えてみたい。最も当事者達にはあまり興味がないことの様に見えるが。
 
 まず、他国と比べた時の国民一人当たりの経済力を上げなければならない。そのためにも地域もしくは国としての人口数と経済の均衡をとることが重要である。現在のロンボク島は70キロ四方の島に人口が300万人近くおりさらに人口は高い確率で年々増え続けている。只でさえ子供を沢山生む傾向にあるが、合わせて他の島からの移住者も増えていることが人口のさらなる増加の原因となっている。しかし、最大の原因はやはり子供を産む人間の考え方だと思う。一つ目はコーランによる、妻は畑であるから努めてこれを耕しても良いという考え。このことは、未婚の男女同士の接触を禁じていることの裏返しでもある。二つ目は子供が増えれば働き手が増えるという生活に則した考え。しかしこれも子供の養育費、子供を最初から労働力とする刹那的な処置にしかならないようなこと、こうした問題が重なれば自らの首をさらに絞める事になる。只でさえ教育を受けていない子供が早期に結婚してどんどん子供を作る事になれば幼い子供が増え、養育にも手間がかかる。そして学校で勉強をできなかった幼少時代を過ごした大人は、収入の低い、小作人の様な仕事に甘んじていく。先日も、少し歩くと、バイクやトラックが走る道脇で、谷から拾ってきた石をハンマーで細かく砕いている子供を見かけた。(道路を曲がってすぐのところに家があるにも関わらず!)建築資材として売るのだそうだ。見るとやらせているのは祖母だ。子供をこの様な使い方をする大人は全然駄目である。彼らは永久に続く貧乏の輪から抜け出せまい。増えていく人口に歯止めをかけ、地域の進むべき方向性を変えなければならない。こうしたことから、国民の道徳観念や精神が、国、又は地域の発展と深く関連しており、教育が不可欠であるといえる。


 ロンボクの主な産業は、北部リンジャニ山麓の豊かな森を使った作物の栽培と、乾燥して広く切り開かれた中部〜南部でのタバコ等の栽培、つまり農業が主体である。農業法の改革は島民の金銭収入の増加に直結する。合わせて