2010年4月5日月曜日

4/5 喰うに事欠く、事欠かない



 日本は世界でも数少ない、喰うに事欠かない国の一つである。この喰うに事欠かないということは、ひょっとしたら生命の種としての人間の社会形成にとって、至上の目標なのではないかと、ちょっと思ったのである。私の見てきたところ、腹を満たすことに不安のない場所では、人間はあまり物質的な欲望に対して、がつがつしていない。経済の熟した地域、若しくは最小限の経済活動の他は自分達の食べる物を自分達で賄える地域がこれにあたる。

 ところが、この中間位にいる人達、つまり自分の食べる物が賄えない状態で貨幣経済の渦中にある様な人達が世界には大勢いる。喰うに事欠き、金もない。こういう状況で、己の精神と欲望を律して生きられるのならばその人は聖人である。

 人間は等しく優秀な頭脳を持ち合わせているにも関わらず、その行動は個人のアイデンティティーと切っても切りはなせない。人はアイデンティティーを自分の属する宗教や社会から作り上げるようだから(日本人には理解に苦しむ人も多いだろうが、神の子としての生を全うする人の世界になんと多いことであろうか。)、生まれた環境を否定し大どんでん返しをすることなど容易ではない。(人間は自分の生活環境がどんなものであれ、変化に対して嫌な顔をする。飼い犬や猫が餌や寝床が変わるのを嫌がるのに似ている。人間も動物の一種である。断じて生命の頂点に位置する優れた存在といった様なものではない。)

中間に生まれた人は、中間の世界で生きていく。

 こうして、世界のほんの少ない箇所に富が集中し、他の大多数が喰うに事欠き、金もないという世界を人間は何百年も変えられないでいる。


 生物と喰いものの関係は需要と供給である。喰うものが多ければ増えても生きていけるが、喰う物がなくなれば、飢え、死ぬ。喰うに事欠かない状況では人の心も安定する。

 日本は世界でも数少ない、喰うに事欠かない国、我々の子孫は100年後もそういえるだろうか、いやそもそも、そのこと事態どれほど正しいことなのだろうか?



 殆ど日常的なことなので、私もそろそろ慣れて、何とも思わなくなってもいいのだが、家もある、飯もある、家族もいる、着るものもある、体つきもしっかりしている人に、金を恵んでくれ、と手を差し出されると、困惑する。確かに暮らしが圧迫する程賃金も低いだろう、仕事も容易に見つからないかもしれない。しかし、だからといって私の顔が”白い”とみるとやたらに金をよこせというのはどういうことか。貴様に恥はないのか!と頭をボカとやってやりたくなる(いつまでも日本人的な判断基準ではいけない。相手の事情を考えなくては‥考えなくては‥!)。貨幣経済の低所得な領域にあり、家計がひっ迫しているのは百も承知である。

 逆に、貨幣経済から少し離れた地域では、金をよこせとせまられたことは殆どない。それどころか、私になけなしの金や物を、道中物入りであろうと、くれることもある程である。

 私は、人が死ぬ程の飢餓に立ち会ったことのない、極めて胃袋の幸福の絶頂にあるような人間である。しかしそれでも、喰いもの、経済、人間の生み出す世界の台所事情が少々気になるのである。台所は、卑しく、浅ましく、清楚で、高潔である。