2010年10月3日日曜日




 木が伐採されて荒れ地の様になったごつごつした道路上に、真っ暗闇の中ぽつんと佇むのはひどく気分が良かった。9月の終わりというのに地上は連日30度を超え、先週まで裸になっていても汗が出る程であったのに、どこか富士の高地のこの場所では深夜気温が10度を下回っている。動かないでいれば寒さで震えてくるが、体を適度に動かしてさえいれば冷たい澄んだ空気が肺に満たされ、清々しい。定例となったこの富士山麓の散歩も今日で何度目だろうか。
 私はまたしてもスラウェシ島のトラジャ族の村での日々をを思い出していた。コンクリート作りの人工横穴式縦型洞穴の中に化学繊維やビニールを張った住居中で、走行車や機会音を聞いて人生の大半を過ごしている我々日本人は、どうしても自然の中で動物としての人間本来の力を発揮する能力が低下している。山に囲まれた木製の住居で、敵や自然の脅威を意識しながら生きているであろう、かの人々は時としてセンスで私を圧倒した。私には決して分からない距離から私や他の物の存在を感知するからである。私はよく彼らのそうした感覚がうらやましくなり、自分もそうありたいと願うがなかなかうまくいかない。養殖された豚の様に太って椅子に座って菓子ばかり喰っている男がいたが、私はその男に気づかれない様に忍び足で近づいているのに、最後の壁の端にきて様子を目視しようか、という時点で向こうから笑って私の名前を呼ばれてしまうのである。何度か挑戦したがだめだった。これは、トラジャで私が訪れた様な山の村ではなく、私の通っていた街中の大学のすぐ近くのアパートでのことであるから、森の人はそれ以上だろうと思う。
 人間の技術力が結集された製造品の中で生きるのは非常に気分がいい。この物はいつ、どこで作られ、どれほどの人の歴史と知恵が積み重なってできているのか、目を向ければ常に考えさせられる。そうした中で人はさらに高度な物を生み出せる様になると思う。思考法は何にでも応用でき、しかも際限がない。しかしどうしても、知識としては知っているが、心で、体で体感している知恵として蓄積されるものとの差が広がってくる。結果、あたりを見回せば、分かっていないことをあれこれ”語る”批判家に満ちあふれている。知らない事があれば知っている者に聞けば良いと思う。分からない、できないことは何故できないかを説明すればいいと思う。蓄積された知恵は必要なときに自然と必ず体現されるからである。
 私は最近、子供時代の私が同じくそうであった様に、何を考えているか分からない人、不思議な人と再び人に言われる様になった。このこと自体は情けない限りのことで、私は己に対して恥を感じる。どこに行ってもオウムの様に繰り返される批判家達のテレビそっくりのマニュアル会話にすっかり辟易してしまって、無口な変人になってしまった様である。
 あれは良くてこれはダメ、そういう事はよほど道徳に引っかからない限り考えない様にしている。そもそも世の中に善と悪ということは決められないという様な事は何千年も前の作家もいっている通りである。幸福の形もまた同じだ。近頃の私は、どうにか今日こうして生きているという事自体に幸せを感じてしまっていけない。感覚を研ぎすましより多くを学ぶ事に人生の楽しみを見つけるべきだと思う。

 この日地上では富士で初雪が記録されたとのニュースが流れた、とのことである。




 私の町で見上げたこの空は

トラジャで見たこの空とも一続きで繋がっている。私の町で見る空もまあまあいいものである。