2010年12月11日土曜日

ロンボク思い出し日記-南方の農業-




(この写真はJIFPRO飯田先生が撮影したものです。一切をアナログで撮影。)

 金がなければ自分の土地にどれだけ木が生えていてもクソの役にも立たない。いかに数百年の大樹といえど一杯の飯に生死がかかっているのである。そういう状況で選択肢は少ない。木を切って売って、そこが畑になればより良い。金銭的貧困の連鎖の幕開けである。
 干上がって水も出ず、金もなく、作物は乾燥に適したものしか育てられない。だから海外ブローカーに安く買いたたかれる。
 在学中、コミュニティーフォレストという言葉を耳にしたことがある。代々の森を切り開かず、森の中で作物を育て、それをもってして各人が生活できる程の収益を上げる。それを共同体が一丸となって取り組むのである。従来の、戦い支配し合う近所付き合いではなくチームワークでやる。
 もともとが村単位の小規模で、殺し合いをする程、敵味方分かれる程のロンボクでは夢の様な話であるが、実際にこの取り組みに成功している村を一村訪ねた事がある。村の指導者は言う「1に森としての機能を生かす事、2に経済、3に地域の連体。この3つのバランスが非常に重要です。ただ我々の様にうまくいく例は非常に少ないです。お金が入りだしたころ隣の村に妬まれて土地を略奪されてしまう事も多いですから。」

 経済的に豊かな我国とは一見して状況がまるで違うが、森の間伐の問題や、無農薬、自然農の価値が注目視され始めている昨今では、この森林と農業を一体化した方法は一つの理想形といえるのではないだろうか。素人の考え方だが、近年確実に成果を上げている炭素循環型農法(土作りに重点を置き、土中の菌の発酵する力を借り土そのもののもつ力を高める法)、土地の地力と野菜の世代交代で自然に植物を育てる環境を作る自然農、などと共通したものを感じる。
 
 やかんに入った水の貴重さはあの日差しと水源のなさを体感する意外に理解する事はできない。が、彼らは言った。「これが普通だよ。」


そう広くはないはずの一つの島で、上の様な場所もあれば、下の様な場所もある。独立後の急激な貨幣経済の浸透が上の様な土地を増やした一要因ではないだろうか。(注意、写真の場所は焼き畑をおこなっている。が、周囲の植生もテレビで見るアフリカのサバンナの様。)

 




本文中の村




(下線はサイトの不具合です)



 

2010年12月7日火曜日

飛騨高山

 88歳のおじいさん。自動車第21聯隊(連隊)へ入隊、戦時中は中国内陸部で過ごした。「ひどかったあ。戦地のことは語りたくもない」


「あんた名古屋からきたんか。ほうか!名古屋にも仲間がおったよ。もうほとんどおらんくなってしまったなあ。」

2010年11月23日火曜日

消される風景


 縁あって名古屋市守山区中志段味で約300年続く農家、現代の野田農場を訪ねた。

 今、野田農場は、道路建設、ユニーの新規店舗建設により農場経営から合法的に撤退させられようとしている瀬戸際にある。これに対して農場側は、農業を続けたいという意志と農場を中心とした周辺の豊かな自然を破壊しないで欲しいという思いから計画の変更を訴えている。
 
 また一つ我々の町の地図から、豊かな風景が消え、無機質なコンクリート砂漠に変わろうとしている。市民にとって、どちらが価値あるものとして残るのか、あまりに想像力の乏しすぎる大人は滑稽でさえある。この決断は精神面でも経済面でも今後この地域の人々を弱体化させていくだろう。50年後ユニーもその次の企業も撤退した跡地には何が建つのであろうか。少なくともその時、今日の様な姿を望んでも人々は数百年の辛抱をしなければ望むものは手に入らない。

 現在、野田農場は裁判協定を無視した無法な作業業者の強行工事によってさらなる苦境に立たされているということである。









 野田農場の敷地付近には水が地中からわき出す泉がある。この様な場所は土地や宗教に
よっては聖地とされることが殆どであることを私は様々な土地で見た。



野田農場ホームページ http://noda.orenest.net/index.php

名古屋南部法律事務所 http://www.nagoyananbu.jp/case/100528-005725.html


2010年10月3日日曜日




 木が伐採されて荒れ地の様になったごつごつした道路上に、真っ暗闇の中ぽつんと佇むのはひどく気分が良かった。9月の終わりというのに地上は連日30度を超え、先週まで裸になっていても汗が出る程であったのに、どこか富士の高地のこの場所では深夜気温が10度を下回っている。動かないでいれば寒さで震えてくるが、体を適度に動かしてさえいれば冷たい澄んだ空気が肺に満たされ、清々しい。定例となったこの富士山麓の散歩も今日で何度目だろうか。
 私はまたしてもスラウェシ島のトラジャ族の村での日々をを思い出していた。コンクリート作りの人工横穴式縦型洞穴の中に化学繊維やビニールを張った住居中で、走行車や機会音を聞いて人生の大半を過ごしている我々日本人は、どうしても自然の中で動物としての人間本来の力を発揮する能力が低下している。山に囲まれた木製の住居で、敵や自然の脅威を意識しながら生きているであろう、かの人々は時としてセンスで私を圧倒した。私には決して分からない距離から私や他の物の存在を感知するからである。私はよく彼らのそうした感覚がうらやましくなり、自分もそうありたいと願うがなかなかうまくいかない。養殖された豚の様に太って椅子に座って菓子ばかり喰っている男がいたが、私はその男に気づかれない様に忍び足で近づいているのに、最後の壁の端にきて様子を目視しようか、という時点で向こうから笑って私の名前を呼ばれてしまうのである。何度か挑戦したがだめだった。これは、トラジャで私が訪れた様な山の村ではなく、私の通っていた街中の大学のすぐ近くのアパートでのことであるから、森の人はそれ以上だろうと思う。
 人間の技術力が結集された製造品の中で生きるのは非常に気分がいい。この物はいつ、どこで作られ、どれほどの人の歴史と知恵が積み重なってできているのか、目を向ければ常に考えさせられる。そうした中で人はさらに高度な物を生み出せる様になると思う。思考法は何にでも応用でき、しかも際限がない。しかしどうしても、知識としては知っているが、心で、体で体感している知恵として蓄積されるものとの差が広がってくる。結果、あたりを見回せば、分かっていないことをあれこれ”語る”批判家に満ちあふれている。知らない事があれば知っている者に聞けば良いと思う。分からない、できないことは何故できないかを説明すればいいと思う。蓄積された知恵は必要なときに自然と必ず体現されるからである。
 私は最近、子供時代の私が同じくそうであった様に、何を考えているか分からない人、不思議な人と再び人に言われる様になった。このこと自体は情けない限りのことで、私は己に対して恥を感じる。どこに行ってもオウムの様に繰り返される批判家達のテレビそっくりのマニュアル会話にすっかり辟易してしまって、無口な変人になってしまった様である。
 あれは良くてこれはダメ、そういう事はよほど道徳に引っかからない限り考えない様にしている。そもそも世の中に善と悪ということは決められないという様な事は何千年も前の作家もいっている通りである。幸福の形もまた同じだ。近頃の私は、どうにか今日こうして生きているという事自体に幸せを感じてしまっていけない。感覚を研ぎすましより多くを学ぶ事に人生の楽しみを見つけるべきだと思う。

 この日地上では富士で初雪が記録されたとのニュースが流れた、とのことである。




 私の町で見上げたこの空は

トラジャで見たこの空とも一続きで繋がっている。私の町で見る空もまあまあいいものである。

2010年6月16日水曜日

婆との思いで


 人と人との出会いがどのような因果に依るものか、時々考える。運、天命、縁、はたまた似た属性の物が引かれ合う人間の特性か。しかし、この際そんなことはどうでもよろしい。目の前に現れる人間、事象、それらの全ては論理(くち)では説明できない。このかけがえのないものを心で感じ、大切にするべきで、それも一種の修練である(人は兎角他人に冷淡になりがち)。
 キンタマーニ山(インドネシア、バリ島東北部)のある村にて私がたびたび世話になった農家の婆が9日に亡くなったとの知らせを受けた。
 突然の訪問者であった私に、警戒せず、卑屈にもならず、いつも自然体で接してくれた。生まれた時から、農民として、農地と、自然と、社会と長年接してきたであろう婆の自然な様(さま)に私はいつも感心していた。というのも婆の動きの一挙一挙には動物の一種としての人間の老いたる姿を逐次感じさせるところがあったからである。それは自然の摂理のひとつを生身の人間で思い知らされているかのような、婆そのものが自然の一部の様な、奇妙だが気持ちのよい、妙に生々しい感覚である。これも婆が私に素直な、全くの自然体で接してくれたからだと思う。
(今ふと思い出したが、出会ったばかりの頃、婆は私はもうすぐ死ぬ、と言っていた。私はそのとき、婆、そんなこと言わないでくれと、日本の慣例どおりのことを言ってそれをとめてしまったが、戯れ言を言っていたのは若輩者で浅知恵の私の方であった。)

 私が問い、婆が答えてくれた、人間の貴重な生命の一瞬。人にものを伝えることが極度に下手な私。私の小さな心一つでは感じたことが大きすぎて、あふれて、消えてしまいそうだ。

雨期は畑に出られないので、農場の手入れ、雑務をする。収益にあまり影響しない時期のせいか肩の力も抜けた印象がある。

こうした葉っぱや花で作る物は世代を経て伝えられる。

婆の家は雲と同じ高さにある!

朝農場に出る前の私に何か簡単な朝食をこしらえてくれるので私は、家族と婆と二度飯を喰い、腹が満タンになった。その味を、私の脳はまだ記憶しているようである。

 生まれた時から今まで、この村の農家で暮らし、年は分からず、80歳か90歳。(後に戦中の記憶の証言から、77歳位であると私が訂正した。)若い頃は村から北部の港町シンガラジャの近くの市まで徒歩で山を下り衣類の行商に出た(バリの行政の中心はかつてはデンパザールではなくシンガラジャであった。)。子供は7人出産したが大人になるまで生きたのは3人とのこと。 




(文中おばあさんのことを婆としたが、私が愛着を感じ、そのように心で思っていたことなのでそのまま文にした。)

2010年5月22日土曜日

5/22 見たまま
















 
 私のみてきた限りでは今日のインドネシアでは、不正が高い頻度でおこなわれ、そして市民はそれを当り前のことだととらえている。政治は国民に少しでもいい暮らしをさせようという意図は感じられない。意欲と、知力に満ちた若者にであえることはあまりない。モラルの基準は個人任せで、法の執行者としての警察は腐敗のため信頼がなく、裁くのも個人の裁量に委ねられる。市民の暮らしは依然として厳しい。
 
 しかし、そんな中でも私が出会った数少ない、モラルに対して常に前向きで、厳しい環境の中でも妥協することなく自分を律して生きている友人達に対して心からの敬意を表する。


2010年4月5日月曜日

4/5 喰うに事欠く、事欠かない



 日本は世界でも数少ない、喰うに事欠かない国の一つである。この喰うに事欠かないということは、ひょっとしたら生命の種としての人間の社会形成にとって、至上の目標なのではないかと、ちょっと思ったのである。私の見てきたところ、腹を満たすことに不安のない場所では、人間はあまり物質的な欲望に対して、がつがつしていない。経済の熟した地域、若しくは最小限の経済活動の他は自分達の食べる物を自分達で賄える地域がこれにあたる。

 ところが、この中間位にいる人達、つまり自分の食べる物が賄えない状態で貨幣経済の渦中にある様な人達が世界には大勢いる。喰うに事欠き、金もない。こういう状況で、己の精神と欲望を律して生きられるのならばその人は聖人である。

 人間は等しく優秀な頭脳を持ち合わせているにも関わらず、その行動は個人のアイデンティティーと切っても切りはなせない。人はアイデンティティーを自分の属する宗教や社会から作り上げるようだから(日本人には理解に苦しむ人も多いだろうが、神の子としての生を全うする人の世界になんと多いことであろうか。)、生まれた環境を否定し大どんでん返しをすることなど容易ではない。(人間は自分の生活環境がどんなものであれ、変化に対して嫌な顔をする。飼い犬や猫が餌や寝床が変わるのを嫌がるのに似ている。人間も動物の一種である。断じて生命の頂点に位置する優れた存在といった様なものではない。)

中間に生まれた人は、中間の世界で生きていく。

 こうして、世界のほんの少ない箇所に富が集中し、他の大多数が喰うに事欠き、金もないという世界を人間は何百年も変えられないでいる。


 生物と喰いものの関係は需要と供給である。喰うものが多ければ増えても生きていけるが、喰う物がなくなれば、飢え、死ぬ。喰うに事欠かない状況では人の心も安定する。

 日本は世界でも数少ない、喰うに事欠かない国、我々の子孫は100年後もそういえるだろうか、いやそもそも、そのこと事態どれほど正しいことなのだろうか?



 殆ど日常的なことなので、私もそろそろ慣れて、何とも思わなくなってもいいのだが、家もある、飯もある、家族もいる、着るものもある、体つきもしっかりしている人に、金を恵んでくれ、と手を差し出されると、困惑する。確かに暮らしが圧迫する程賃金も低いだろう、仕事も容易に見つからないかもしれない。しかし、だからといって私の顔が”白い”とみるとやたらに金をよこせというのはどういうことか。貴様に恥はないのか!と頭をボカとやってやりたくなる(いつまでも日本人的な判断基準ではいけない。相手の事情を考えなくては‥考えなくては‥!)。貨幣経済の低所得な領域にあり、家計がひっ迫しているのは百も承知である。

 逆に、貨幣経済から少し離れた地域では、金をよこせとせまられたことは殆どない。それどころか、私になけなしの金や物を、道中物入りであろうと、くれることもある程である。

 私は、人が死ぬ程の飢餓に立ち会ったことのない、極めて胃袋の幸福の絶頂にあるような人間である。しかしそれでも、喰いもの、経済、人間の生み出す世界の台所事情が少々気になるのである。台所は、卑しく、浅ましく、清楚で、高潔である。

2010年3月28日日曜日

3/28 喰いものの話



 インドネシア人と話していると、日本にあれはあるか、これはあるかといった話になることが頻繁にある。考えの至らない者になると、日本人の主食はラーメンだと思っている様な場合もあるのが、我々にとっても身近な野菜や果物、天然素材についてあるかないかと聞かれることが多い。バナナやキャッサバ、アボガドの様な熱帯産の物なら、ああそれは買うことはできるけど輸入品だよ、ということになるが、キュウリやホウレンソウ、カボチャなどを、さあこれはまさか日本にはないだろう!といった感じで聞かれると、何を言っていやあがる!という気持ちになる。しかしちょっと待てよ、我々が普段口にしているものは一体いつ、どこからやってきたのであろうか。キュウリ、ホウレンソウ、カボチャ、いずれも漢字にしてみると黄瓜、菠薐草、南瓜、これらの野菜が、日本土着のものとは思えない。

 人間は、身近なもの程まさしくそれが数千年前からの習慣でもあるかの様に思い込んでしまう様だ。そしてそれは、生きていく上で大して問題にならないから考える必要もない。私自身、日本で日常、道脇の畑で見かける野菜を、それが一体何故そこに存在するのか、ふと思いはしても次の瞬間には忘れてしまっている程度にしか考えなかった。人間がこうした誤認を本当に日常的に重ねていることにあらためて気づかされたのは、私が普段目にするロンボクの光景からだろう。インフラ整備の中途半端な町中のことである。壊れたアスファルトの道でジーンズ、Tシャツ姿で携帯をいじくり回す沢山の若者達を見るとどうも先行きの暗い気持ちになる。それは町中だけのことではない。島の農村部でも同じである。もはや伝統的な生活風景を見ることはできない。それどころか、何が自分たちの伝統、文化なのか既に正確に語れる者は殆どいないといっていい。彼らの持っている知識の根拠は、インドネシア政府による都合あわせの近代史教育と、私と同じ、既に子供の頃から日常となっている習慣への誤認である。大量消費時代の、我々の親世代が戦前に無関心であった様に、インドネシアの人々もほんの近い過去を誤った形で後世に伝えていくであろう。私はこれが人間の悲しい因習の様に思える。昨日より今日。今日より明日へ生きていくのが人間であるが、同時に過去から学ばない者は同じ過ちを繰り返す。歴史から学ばない人間の集団は、愚か者の集まりであり、罪悪である。言い過ぎた。

 私はどうも年寄りが好きな様で、また年寄りの方も私を好む傾向がある様だ。面と向かい合った人間は己を写す鏡である。そういう訳で、昔話をせがむ機会に恵まれるわけだが、往々にして当の本人が経験した過去と、世間で言われている見解とは異なる場合が多い。直接の息子や、孫でも若い世代が持っている知識は後者に由来する。ひょっとしたらこのことは万国共通なのかもしれない。先日もばあさんと孫の中間に座っていた私が、二人に伝統衣装に関する同じ質問を別々にすると、孫の方はこの地方で結婚式や祭りで使われる日本の学生服の様な物をずっと昔から伝わる伝統衣装だといい(始めは今着てるTシャツと同じよ、と言ったが)、ばあさんのほうは、最初こそそうだといったものの、よくよく思い出してみると違うようで、ほうじゃほうじゃ、そういえば大人はこおんな三角の形をした服を着ておったわ、と言う。そういう服は博物館にも展示されていなかった。孫のほうも初めて聞いたという風に驚いていたが、すぐに興味を失ったようで携帯のメールを忙しく見ている。婆さんは75歳位で、私(わたくし)は大東亜の学生です、これを小学校で教わったがどう意味だと私に聞いてくる様な年齢。日本の学生服の様な物の方は、恐らくオランダ/ヨーロッパがもたらしたか酋長、王族に着用を義務づけたものだろう。とすると、三角の服の方が、伝統衣装だと言えるだろう。若しくは私見だが、サロン以外何も身につけていなかったか。こういう小さな事実を記憶しておかなくては、以後この事実は失われてしまうかも知れない。

 しかしこうしたことの何と多いことであろうか。もし、読者の中に高年齢の祖父、祖母が健在の方があれば可能な限り昔話をせがむことをおすすめしたい。昔話の多くは我々の日常とはかけ離れたものであるかもしれない。しかし、世界とはまさに彼らの語るところそのままである。過去に学ばないものに、未来はみえない。

 子供の頃じいさんが言っていた、じいさんの子供時代の話。裏山で松茸が山の様にとれ、おもしろ半分に撃ってくる米軍戦闘機を芋畑にかくれてやり過ごす。爆撃の翌朝仲良しの女の子がどぶに横たわり、我らが中学校はかつて射撃訓練場であった。それらはほら話ではないどころか寸分違わぬ事実であることが、今、やっとわかった。


 話を本題の野菜にもどそう。では、我々の胃袋に消えていくそれらはいったいいつから、ここにあるのだろうか。電子辞書の広辞苑が意外と役にたった。少しだけ例を挙げる。


黄瓜:古く中国より伝来。

大根:同上。

菠薐草:イラン原産。16世紀中国より渡来。菠薐はネパールの地名。

南瓜(カボチャ):16世紀カンボジアより渡来。

ジャガ芋:アンデス高地原産。1596〜1615(慶長)ジャカルタより渡来。

トマト:アンデス高地。18世紀。

人参:西アジア。16世紀。

玉蜀黍(トウモロコシ):中南米。16世紀。

薩摩芋:中南米。中国、琉球、九州を経て渡来。17世紀。

キャベツ:明治初年以降。

白菜:明治以降。


 こうして見ると、普段我々がスーパーマーケットで買う様な野菜は日本で栽培が始まってからまだ数百年程しかたっていないものが多い。すると、我々の祖先はどういったものを口にしていたのだろう。弥生時代、米と大豆の栽培がはじまって以降、古くから渡来している、長いも、里芋、大根や、小豆といったものだろうか。数百年で食事の様式は随分変化を経ているのではなかろうか。すると、我々がこれぞ伝統の味と思っている数々の料理も、何を基準にそういえばいいのか、危うくなってくる。


 写真:トラジャ県南部山岳地帯にて、谷に生える水菜を収穫し帰路につく子供達。文明とはなれて豊かな自然の実りと共に生きていくのと、便利な文明のそばで貨幣経済の渦中で生きていくのと、どちらが幸せか?