2011年11月17日木曜日

ロンボクへ再び







 日本はアジアの一部で、ぐるりと周りを取り囲んでいる大陸や島々の人々がちょっとづつ混ざって今の日本になったのだなあ、地図上の海に囲まれた日本を見ていて思ったことがある。南方に来てみて実際に言葉の面で似ている単語もいくつかあり、ああやっぱりどこかでアジアの諸々の地域と日本の文化というものは接点があるのかもしれないとも思う。それは夢想か現実か。
※(nasi飯-meshi飯、tana畑-hata畑、sawa田-sawa(沢)、mata目-mata瞼、campurチャンプル-campurチャンプル、等。しかしこれらの単語自体、どこかから伝播した言葉かもしれない。インドネシア語はスマトラの方のマレー語を元にしているから大陸にかなり近いという地理的なことも考えなくてはならない。)

 どういう因果でこうなったのか分からないが、再び奨学生としてロンボクへやってきた。大げさだが、私は日本人でありながら日本社会から切り離された一個の人間として、この土地の人の声を聴き、同じ飯を喰って命をつないでいかねばならない。
 今こうしてロンボク人(ササ人が主だが雑多な人種が混ざっているため仮にこう呼ぶ)の中にいて、この閉鎖的な地域社会で育って来た人々と話していると、どちらかというと一緒に奨学生として来たスロバキア他東欧の学生達のほうが現在の日本人としては話が通じる。スロバキアなんかは雪と氷で閉ざされたロシアの大地より更に遠方にあるのだから、まさしく地の果てに住む人のようなものである。その様な遠い国の学生となぜ日本人と対するのと変わらない様にコミニケーションができるのか。
 現代社会としての世界における日本と他国の若い人の共通性をみるならば、地理的距離よりも、その出身地の一社会としての文明の変遷の方に、時として目を向けるべきなのかもしれない。消費経済の中では世界中どこでも同じ商品が流通している。また情報の面でも英語主体とした場合、同じ情報を共有しているのである。国ごとに差があるとはいえ、ある時代を境として土着の歴史から漂泊した同じ現代っ子なのではないだろうか。そういう点では、ロンボク他インドネシア各地に見られる様な、未だ村落単位での独自のルールや暗黙の法に強く縛られている若者達とは事情が異なる。この2011年においてもまだ、私などがロンボクの村にのこのこ入っていくと大騒ぎになるのである。(とはいえ、どこから来た、いつ来た、恋人はいるか、とうの質問ぜめの後、トヨタ、アジノモト、スズキ、ホンダ、ドラエモン・・後はなにを聞いていいか分からなくなり、最終的には、金持ち日本人、金を恵んでくれ、で終わるのが殆どの場合である。こういうことの繰り返しをさけるためにはこちらから質問できる様に色々と工夫しなければならない。気づいていようがいまいが、こちらも相手もステレオタイプという無用な色眼鏡がコミニケーションの邪魔をする。そういう極めて表層的なフィルターを取り除いて、やっとまともな会話が成り立つというのも同じ人間としては皮肉なものである。先に質問ぜめと書いたのも、私からの視点であって、他人との始めの接触で向かえる側が来る側にあれこれ質問するというのが普通のことなので、それに外国人という興味が加味されているにすぎない。この質問ぜめ形式には理由があるはずで、各村、部族、が分かれていて、それぞれが別の共同体と認識しあっているか、過去にそういう意識が強くあり、相手の所属、目的を尋ねることで敵味方の区別をつける必要があったためではないかと思う。その証拠に、名前を名乗ることの重要性は低く、質問に答えられない場合警戒をまねく。ロンボク人はこの傾向が強い様に思う(一般に南東方向)。)

 ともあれロンボクである。

 1970年代ではまだ殆ど電気もなく、車も数台しかなかったと言う人がある。私の就学先のマタラム(NTB州都、県庁)の今の様相とは随分違うが、それでも郊外を見ればなんとなくイメージがつく。そのころから、とりわけロンボクは貧しいといわれていたということである。
 一体インドネシアの独立から60年以上経過しているのに、まだこの地は貧しい。悪いのは貧富の差を平均化できない国か、隅々まで賄賂がまかり通る人の心の弱さか、一つ一つの小さな声をまとめられない島民の団結の欠如か。
 最近のニュースでは国際空港が開港したということが大きなものだろうか。国際空港設置の目的としては、ロンボクをバリに準じた観光地へと開発をすすめること、それからイスラム教徒のメッカ巡礼を円滑にすることがあげられている。観光地として、この貧しい島にいかほどの魅力があるであろう。井戸を掘って水がでず、その日暮しの藁葺き建ての村の隣に、観光用の5つ星ホテルが建って利益があるだろうか。各村々はイスラムと村独自のルールを重視し、とても歓迎的とはいえない。地方の荒れた道路を修復せず、街中に建設された大イスラムセンター。消えた森林、死んだ珊瑚礁の海。そして、その重要な空港を建設するにあたっては、土地を所有している農民を騙して買い上げるという役人の職責に対する意識の低さ。この島が観光地として発展する可能性は、夢といっていい程低いだろう。この島にはこの島の発展、幸福の未来図があるはずだ。その糸口となるのは教育の充実、強化ではないだろうか。そもそも、ものを考える知識のベースがなくては話にならない。しかし、そんなことは60年前の人もとっくに承知のはずである。暗中模索するこの島のあり方に光を遮るなにものかがある。

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